最近、「配慮」という言葉をよく見かける。
誰かが幸せな報告をすれば、 「今つらい人もいるんだから。」
子どもの話をすれば、 「授からない人もいるんだから。」
旅行の写真を載せれば、 「行けない人もいるんだから。」
もちろん、その気持ちも分かる。
他人の幸せを喜べる余裕がないときはある。 誰かの何気ない言葉が、胸に刺さってしまう日もある。
私は緊急帝王切開で息子を出産した。
母子ともに無事だった。 それだけで十分幸せなことなのに、「思い描いていたお産」とは違ったことが、ずっと心のどこかに残っている。
だから今でも、「幸せなお産でした。」という言葉を見ると、胸が少しモヤっとすることがある。
「いいな。」 「私は違ったな。」
羨ましい気持ちになる。
その人にとっては、本当に幸せなお産だった。それでいい。
頭では分かっていても、心はどんよりとしたまま。
でも、配慮ばかりで幸せを隠さなきゃいけない世界は、なんだか寂しいと思うのだ。
みんなが配慮して、自分を隠して生きて誰も傷つかない世界。
みんなが嬉しかったことや幸せだったことを報告しあって、喜び合える世界。
どちらの世界も、あっていい。
私は、「幸せだね」って素直に言える世界は好き。
そんなふうに、人の幸せを一緒に喜べたら、自分まで少し幸せになる気がする。
この人が傷つくから、今これは言わないでおこうって配慮できる世界も好き。
優しいがあふれた世界。
どちらもあっていい。
ただ、苦しくなるほど配慮したり、相手の幸せを押し込んでまで配慮を求める世界は悲しい。
もちろん、理想通りにはいかない。
私だってそうだ。
だから、「喜べない人が悪い」とも思わない。
きっとその人も、何かを抱えながら生きている。
だから大切なのは、お互いに少しだけ思いやることなんじゃないかなと思う。
世界中のみんなが幸せになることは、きっと難しい。
でも、せめて身の回りだけでも。
誰かの「嬉しいね」を一緒に喜べて、誰かの「つらいね」に寄り添える。
そんな小さな輪が広がっていけば、世界は今より少しだけ、生きやすくなる気がしている。
完璧な優しさなんて、きっとない。
だから私は今日も、「優しく、まあるく生きる」を目指していきたい。


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